ゴミ拾いから見えてくるもの  (2007-08  記述)

「四街道をきれいにする会」は毎月15(5(ゴ)×3(ミ))の日にごみ拾いをしてきた。これまで毎
月1回も欠かさずに3年続けてこの8月で35回目を迎えた。月一回朝9時から駅前 住宅地 
里山 畑地 川 高速道側道など所をかえて20人から45人が各地に出没する。

ゴミ拾いの初めての人は「聞きしにまさるゴミ散乱」にオドロキ、 継続している人は新たなゴミ
様子の発生に驚く。驚きは継続の秘訣かもしれない。今年の6月はホタル生息地とその付近
の清掃をした。おかげで8月調査では昨年の倍の400尾以上の蛍の求愛ピカピカを観察する
ことができた。7月のゴミ拾いは里地であった。

いずれも住宅地や小中学校の裏側に広い里山や森が展開している所だ。7月にゴミ拾いをし
た地域の住人いわく。「ここはまるで四街道の軽井沢だ」と。ゴミがなければの話ではあるが。
6月にゴミ拾いをした地域近くの猫の額の私の庭にも13種類の小鳥が来てさえずっていた。
引っ越してきた頃 たまたま訪ねて見えたタイの大学院学生はここは公園の中ですかと真顔で
きいたものだった。まわりの散策地にも事欠かなかった。
この2,30年の変化
ところが17,8年経た今日 由緒ある地名を持つ森は荒野になり開発中断で肌地まるだし。そ
の近くの森は残土や不法投棄産廃銀座の汚名を冠しても語られるようになった。一方7月にゴ
ミを拾った所は森のほんの一角約0,5キロメーター拾ったに過ぎないが、でてきたものは 大
きなゴミではエレクトーン 多くのバッテリー、 パソコン機器いろいろ、 はてはゴルフセット、 
いろいろな家電がよりどりみどり、油缶に 大量のタイヤ(22本だった)に マットレス等など、
その散乱の様子も数も半端ではなかった。私の幼いころこのような文明の利器はなかった。少
しはあったとしても無造作にすてられてはいなかった。

しかし待てよ、この現実はひとり四街道だけでなく全国各地の少なからぬ現実だとしたらまさし
く日本はゴミ荒野大国に変貌していく事になる。どうしてなのか。経済界へのいわゆる規制緩
和。利益本位の競争経済をもっぱらとしてきた日本にしてはじめて成立した現象と言えないだ
ろうか。もっと「多く」 もっと「早く」 もっと「大きく」もっと「できる」ように人々を追い立て、いわ
ば「もっと病、所有病」に人々を駆りたててきた。のった「私」もいた。結果ゴミ、ゴミ、ゴミ。格差
と排除の引き裂かれた多くの「私」たち。その犠牲(例えば就労者の3人に1人はすでに非正規
職員になった。中高年の自殺者は3年連続3万人)の上で大企業や銀行の史上最高の利益が
生まれ、いわゆる「景気が回復」し政治献金が大手を振り、政治家は日本と国土を愛せよとい
い始めた。ゴミ列島をかえる政策展望を全く示さないままに。
地域生活を先端(深部)で支える人たち
さて私たちは拾い集めたゴミを4箇所にまとめた。ゴミを拾った翌翌日、市のクリーンセンター
の清掃車を道案内してこの森に入った。土砂降りのなか整理するセンター職員の働き振りに
は頭が下がるものがあった。地域生活を先端(深部)で支える人たちであった。ゴミと一緒にモ
ラル(人間の誇り)もすてて増大する近代化の負の遺産に呻吟する現場労働があった。しかし
そばの住宅に住む人たちはこれを知る機会はない。仕事や通勤時間に大半を割かれ地域で
の生活接点が少ないこともある。これでいいのかどうかは別として市民活動に関わる定年組み
と自営者、主婦、にゴミを拾う役目が廻ってくる。

         ゴミを拾う意味と意義   覚醒のよい機会

 34回拾ってきていえることは その報酬は拾ったあとの気持ちよさを味わえることと仲間が出
来ることであろう。また拾う人は絶対ゴミをその辺に捨てなくなる。そして不法なゴミ投棄に批判
力を持つようになる。「きれいにする会」では実際にゴミを拾うことで自治体政策に生かしてもら
おうとそのつど市と市会議員にチラシを渡してきた。あの悪臭をかぎゴミの手触りを体験するこ
とで仲間になってほしかった。ゴミ一掃の流れを作りたかった。四街道のゴミをたっぷり含んだ
汚水は千葉県民の飲料水源の印旛沼につながっていることを実感してほしかった。しかしこれ
まで参加した議員は4人、市長は1回目の時挨拶に見えた。スタートは3年前 堂本知事が四
街道の不法産廃の視察の折あつまった福祉や環境、子どもや木工クラブや自治会などの市
民団体の有志で始めた。しかしやる事は黙々とした地味なゴミ拾い。派手な話題性はない。票
には結びつかないのかもしれない。もっとほかに市政、県政に大事なことがあるからだという反
論もあろう。ただちょぴりでも具体的な地域ごみに目線があってほしいと思う。その点では中高
生徒や学生は素直である。ある大学で「四街道のゴミ事情」を題材にしながら授業のひとコマと
して「キャンバスゴミ」を取り上げた。春学期最終講で「夏休み登校してキャンバスのゴミ拾い」
を呼びかけてみた。30人と読んでいたが受講生の半分弱の90人が14日登校して腰をかが
めた。「拾う側になってみると始めてわかる」「実際にゴミ拾いをしてみて、見たり聞いたりする
のとはやっぱり違うなと思いました」。「今日は暑かったので汗がだらだら出てきて、大変でし
た。もうポイ捨てはしません」「反省しました。私はポイ捨てをしたことがあります」。「今日は大
学の中をキレイにしました。きれいになったら心もキレイになった気がしました。1コぐらいなら
いいやというのはやめようと思います」「ゴミを拾うという行動がその環境を好きになることにつ
ながると実感しました」「私はこれを機にゴミ捨てはしない」「 今日のゴミ拾いは楽しかった」
「自分に対する考えの甘さ、営利目的でなくても、人の役に立てることのすばらしさを知った。こ
の授業で自分の考え変えることができたような気がする。履修して本当に良かった」。同じよう
な感想がつづく。若い人から学べたのは世にいう「環境教育」は現に生きて住む足元の生活や
自然の中で「住み心地のよさ」や「居こごちのよさ」を求め、科学の光を当てる「体験共育」がい
いということだった。それにしても過度な近代物質文明からギヤテェンジしないですすめば持続
不可の大変な世紀を迎えるわけだが 生活や地域体験での「まちづくり 地域づくり」がそのき
づき 覚醒のよい機会を提供するのではなかろうか。(高橋晴雄)





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毎月15日(5×3=ゴ×ミ=15)ゴミをなくす行動日、ぜひ、ご参加ください。